今 一番重要なこと とも思える。というのは・・
科学者、学者は誰に向かって提言するのか? ということが、現在、曖昧ないし無責任になっているからである。戦時中の京都大学経済学部長、後の京都府知事 蜷川虎三は終戦直後 戦争責任で経済学部教授の全員辞職を提言。自分と同志3名で辞職。「何に対するどのような責任があるか?」蜷川は弟子の有田正三に語った。「帝国大学教授というのは天皇への奏上が第一の義務である。学生の教育とかは二義的。侵略戦争であり、勝利の見通しなど無かったことを正しく奏上するのが任務。それができなかったのであるから責任をとり辞任するのだ」。現人神天皇に真理を奏上、と理解して良いのだろうか。デカルトはパリ大学神学部学部長諸博士への書簡として「省察」を著わしている。
現代の教授というのは、誰に対しても責任のないオキラク オジサン。またはオバサン。現代の日本の学会を嫌って外国に渡った人がノーベル賞。大学と学者、学問全体の在り方が再構築されねばならない。ちょっと前「再構築」が流行したが、ふぬけた文部省/大学の在り方はそのままだったので、學の内容を壊しただけとなった。
再建されねばならないのは学問の目的と方法、専門化の原理。目的不明の体制での「専門家」の群生状態は改めるのが望ましい。
デカルトは神学部と対話している。
「方法序説」も神に関する問題での真理探究の方法。全体の目的はキリスト教的枠組みを前提としている。
都市景観であっても寄木細工はよくない。現在の学問は寄木細工である。
一生に一度は断じてすべてを根底から覆し とデカルトは言う。
若き日に学んだ「マルクス経済学」が霧のように消えてしまった今、根底から考え直す時がきたのであろう。しかしこの老齢・・・