読書尚友

A reading room in Nagoya

58 山形和美 編「聖なるものと想像力」

キリスト教文学会の権威  山形和美教授

那須高原の英国風白い館、敷地は広く、緑が深い。車が2台、黄色のかわいいワーゲンと灰色のベンツ。一階の広いお部屋で奥様とお嬢さんが出迎えてくださいました。お嬢様とはフルート奏者の山形由美さん。先生がワーゲンで、由美さんがベンツとのこと。書庫(別棟で大規模:見学せず)の整理をお弟子さんたちが協力、本の間に空間ができた と喜んでみえました。書斎の飾り棚にはチョーサー全集。OEDは見あたらず、パソコンソフトのOED使用。山形先生心酔者の詩人 S 氏は隣の寝室までお願いして見学。「漱石全集があった!」

山形和美編(山形氏が巻頭言+冒頭論文+あとがき執筆。キリスト教文学の論客、大家が各論執筆。はしがきに山形理念が示されている。 垂直べクトルへの志向  山形氏が指揮者で学会の人々がオーケストラのようにみえる著作)「聖なるものと想像力」彩流社 1994年

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はしがき

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山形論文「<聖なるもの>と<想像力> - ひとつの視角への試みー

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同上論文

仮説 山形の範疇は 鈴木大拙の範疇と同一 認識の基本構造が意外にも同型。

大拙説は昨日のページ参照。「聖なるもの」が鈴木大拙の言葉でいう第一系列 「想像力」が第二系列(日常のあくせく)から第一系列(悟りの世界)への動き。山形の言葉の水平べクトルが大拙語の第二系列内の動き。垂直べクトルを妙好人は無意識にやっている。山形語「うらぶれたものが美しく見えた」は大拙語「阿弥陀の慈光につつまれた」 わたしはそのように受けとめています。今日のところはそうです。

 本日パソコン不調 引用文がカットできないので ここまで。

 

追記 山形由美さんのページを拝見 以下引用(全文)

二追 1200万円のフルート盗難事件 ご本人のお知らせ文によれば 東京駅のコインロッカーでの被害。金のフルートは失ったが、学生時代からの銀のフルートがあり、演奏活動に支障なないとのことです。

 

追記2 山形和美氏は「聖なるもの」を垂直のヴェクトルで追求。 山形由美氏のフルート演奏の究極の目的は何か。お父様と同一か。演奏を聴いて考えてみます。下掲、「天にいる父に届くよう、心をこめてフルートを吹いていきたい」

 

    特別寄稿 ~追悼 父、山形和美を語る~  文・山形由美

 時代が平成から令和に変わった5月、父山形和美が天に召されました。家族一同に見守られながらの、安らかな旅立ちでした。
 東京から避暑に訪れた那須高原が気に入って、豊かな自然の中でじっくりと研究に励めると移住し、穏やかに過ごしていた父が、肺炎で危ないという突然の知らせ…。それは一昨年の3月、私が、東京の「銀座Sun-mi」でのコンサートに臨んでいるときでした。大きなショックに見舞われた私は、涙をこらえ、気持ちを奮い立たせて演奏に集中しようとしたことを覚えています。幸いなことにそのときは一命を取り止めることができました。
 以来2年余、幾度となく死線をさまよいながらも、そのたびに力強い生命力で奇跡的に蘇った父は、今年の3月に満85歳となり、令和の時代も迎えることができました。毎日欠かさず見舞っていた母、仕事の合間に家族を連れてしばしばトンボ返りをしていた弟…。そして私も数えきれないくらい那須を往復して、父との大切な時間を持つことが出来たことは、なんとありがたいことだったでしょうか。毎日父のために祈り、可能な限りは同行して、私の支えとなってくれた夫にも感謝しています。
 若くして学者となった父は、とにかく勉強家でした。家にいるときはほとんどの時間を、本に溢れた書斎で研究に費やしていましたし、居間で寛ぐときでもつねに本を手にしていました。その集中力は凄まじいもので、ひとつのことに打ち込む人の姿というものを目に焼き付かせてくれました。信じられないほどの集中力と大きなエネルギーで、次から次へと研究を深め、著作を発表していましたが、専門違いの私にはなかなか理解することが出来なかったことが残念です。
 父は、母の存在があったからこそ、あれほど学問に専念することができたのだと思います。もともと器用で、やれば何でもできた父が、学問にのめり込むあまり、それ以外のことはすべて母に任せるようになっていきました。常に母がそばにいることを望んでいたのは、物理的にも心理的にも母を強く必要としたのだと思います。父が大学院生のとき結婚した両親は、60年も一緒にいたことになりますが、その間母は、本当によくサポートをしたと思います。
 仕事人でありながら、父は実に家庭を大切にする人で、子供の頃からよくドライブや旅行に連れて行ってくれました。また父がケンブリッジ大学に赴くタイミングと私が藝大を卒業する時期がぴったりと合って、共に英国生活を送ることが出来たこと、そして英国から帰国する途中、両親とともにフランス、イタリアをじっくり旅行し、様々な文化に触れたことは、私にとって大きな財産となっています。
 父は、私が音楽の世界に生きていることを、尊重してくれていました。家で長時間フルートの練習をするのは、研究に差し支えたかもしれませんが、一度もうるさいと言われたことはありません。演奏会を喜んで聴いてくれていましたし、セルフプロデュースCDを制作するときも、力になってくれました。イタリアの公演にも足を運んでくれ、そのときに長年の親友であるパドアンさんご夫妻とも会うことができたことは、何よりでした。
 この2年、父のことを思うと、どこにいても気が気ではありませんでしたが、なぜか不思議と病状の変化によって私の演奏会に差しさわりがあったことがないのです。亡くなったのも、ヨーロッパツアーと、飛鳥Ⅱのアラスカ・ロシアクルーズの間のことでした。このことからも、本当に父は私を応援してくれているのだと感じています。
 残された家族は寂しいですが、父は学者として、家庭人として、これ以上ないほど真摯に生き切ったと思います。天にいる父に届くよう、今まで以上に心を込めてフルートを吹いていきたいと思います。

 時代が平成から令和に変わった5月、父山形和美が天に召されました。家族一同に見守られながらの、安らかな旅立ちでした。
 東京から避暑に訪れた那須高原が気に入って、豊かな自然の中でじっくりと研究に励めると移住し、穏やかに過ごしていた父が、肺炎で危ないという突然の知らせ…。それは一昨年の3月、私が、東京の「銀座Sun-mi」でのコンサートに臨んでいるときでした。大きなショックに見舞われた私は、涙をこらえ、気持ちを奮い立たせて演奏に集中しようとしたことを覚えています。幸いなことにそのときは一命を取り止めることができました。
 以来2年余、幾度となく死線をさまよいながらも、そのたびに力強い生命力で奇跡的に蘇った父は、今年の3月に満85歳となり、令和の時代も迎えることができました。毎日欠かさず見舞っていた母、仕事の合間に家族を連れてしばしばトンボ返りをしていた弟…。そして私も数えきれないくらい那須を往復して、父との大切な時間を持つことが出来たことは、なんとありがたいことだったでしょうか。毎日父のために祈り、可能な限りは同行して、私の支えとなってくれた夫にも感謝しています。
 若くして学者となった父は、とにかく勉強家でした。家にいるときはほとんどの時間を、本に溢れた書斎で研究に費やしていましたし、居間で寛ぐときでもつねに本を手にしていました。その集中力は凄まじいもので、ひとつのことに打ち込む人の姿というものを目に焼き付かせてくれました。信じられないほどの集中力と大きなエネルギーで、次から次へと研究を深め、著作を発表していましたが、専門違いの私にはなかなか理解することが出来なかったことが残念です。
 父は、母の存在があったからこそ、あれほど学問に専念することができたのだと思います。もともと器用で、やれば何でもできた父が、学問にのめり込むあまり、それ以外のことはすべて母に任せるようになっていきました。常に母がそばにいることを望んでいたのは、物理的にも心理的にも母を強く必要としたのだと思います。父が大学院生のとき結婚した両親は、60年も一緒にいたことになりますが、その間母は、本当によくサポートをしたと思います。
 仕事人でありながら、父は実に家庭を大切にする人で、子供の頃からよくドライブや旅行に連れて行ってくれました。また父がケンブリッジ大学に赴くタイミングと私が藝大を卒業する時期がぴったりと合って、共に英国生活を送ることが出来たこと、そして英国から帰国する途中、両親とともにフランス、イタリアをじっくり旅行し、様々な文化に触れたことは、私にとって大きな財産となっています。
 父は、私が音楽の世界に生きていることを、尊重してくれていました。家で長時間フルートの練習をするのは、研究に差し支えたかもしれませんが、一度もうるさいと言われたことはありません。演奏会を喜んで聴いてくれていましたし、セルフプロデュースCDを制作するときも、力になってくれました。イタリアの公演にも足を運んでくれ、そのときに長年の親友であるパドアンさんご夫妻とも会うことができたことは、何よりでした。
 この2年、父のことを思うと、どこにいても気が気ではありませんでしたが、なぜか不思議と病状の変化によって私の演奏会に差しさわりがあったことがないのです。亡くなったのも、ヨーロッパツアーと、飛鳥Ⅱのアラスカ・ロシアクルーズの間のことでした。このことからも、本当に父は私を応援してくれているのだと感じています。
 残された家族は寂しいですが、父は学者として、家庭人として、これ以上ないほど真摯に生き切ったと思います。天にいる父に届くよう、今まで以上に心を込めてフルートを吹いていきたいと思います。