読書尚友

A reading room in Nagoya

108 放哉 尾崎放哉集 [大空]

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萩原井泉水編「尾崎放哉集 大空」春秋社 昭和56年

 

追つかけて追ひ付いた風の中

お粥煮えてくる音の鍋ぶた

井戸のほとりがぬれて居る夕風

足のうら洗へば白くなる

入れものが無い両手で受ける

せきをしてもひとり

働きに行く人ばかりの電車

ここまで来てしまって急な手紙書いている

 

放哉 小豆島西光寺南郷庵 晩年の句。「ここまで来てしまった」どこから来たのか。追いかけて追いついた風の中 何からのがれて自由になったのか?

尾崎放哉 1885 明治18年ー 1926大正15年 42歳 

1909年 25歳 東京帝国大学法学部卒業 1910年韓国併合(植民地化) 1911年 東洋生命保険会社入社 1915年 東京本社契約課長となる 1923年 39歳 朝鮮火災海上保険会社支配人として赴任。朝鮮政務総監丸山鶴吉は大学の同期生。放哉は総監官邸へ酩酊して「丸山居るか?」と大声で怒鳴って押しかけていたという。

韓国植民地支配のトップと大酒を飲んでいた3年後の死。

課長時代、忘年会の幹事となった放哉は忘年会の始まらない前に、集めた会費を日本橋の橋の上で道行く人々にお歳暮だからとっておけと、十円札をばら撒いたという。ある精神科医はこのことから放哉を精神病者と断定。

中国大陸で市民殺戮を含んでの掃討戦に従事した日本兵の中には精神病を発症した人もいる。帰還後入院、退院後酒乱。アウシュヴィッツのドイツ兵も毎晩大酒を飲んでいたという。

放哉を脱俗の詩人というが、どのような卑俗をくぐりぬけたのか。韓国の植民地化の時期、東京帝国大学法学部関係者はどんな役割を果たしていたのか?放哉はボート部出身であり、仕事上何かあれば、友人の知人と対応できる位置にいた。朝鮮総監の丸山とは一高で寮生活で一緒? 年齢も30歳なかば、働き盛り。朝鮮半島で何が起こっていたのか。たとえば土地調査事業、韓国の土地の所有者を登録させ、誰も申し出なければ国(植民地政府)のもの、申し出れば重税。中世的な共有地も多くあり、申し出はなく、接収されたという。朝鮮半島全土で、あらゆる部門で収奪が組織的に進められたと考えられる。それは植民地政府の作る法律により、日本の大会社が施行していったのであろう。植民地政府立法司法部門および大会社の枢要の地位を占めたのが東大法学部であろう。朝鮮火災海上社も政府とのパイプ役として東大出を雇い、放哉は総監邸宅に押しかけたのだから立派なパイプ役である。どの程度の会社かはわからないが、ソウル旅行で一番背の高い立派なビルは保険会社であった。放哉が初代支配人だったかもしれないと見上げました。

法学部での法律の勉強法には二種類。六法に精通、司法試験合格の実践派と理念の追求派。放哉は法への見識があり、法律を盾にした悪事が良くみえていたのではないだろうか。植民地化直後の時代、総体において朝鮮半島で何が進行しているのかわかっていて心を病んだ、そう考えたいが、コロナ禍の今日この頃、家で妄想するのみ。

現在 韓国人の老人たちが日本の大企業相手に訴訟。日韓関係が深刻な局面にある。日本の植民地支配時代の犯罪的収奪は、個人ではなく、政府・大企業の手によっておこなわれていたのであろう。その当事者として放哉がいた、というのが私の仮説。

文学の人々は放哉を脱俗、酒乱とし、会社をやめた3年間の漂白を追う。私は忘年会の会費をばら撒いて走りたくなる当時の世間の在り方をもっと知りたい。放哉は何からのがれたかったのか。