読書尚友

A reading room in Nagoya

180 ガダルカナル戦記 第38師団(名古屋)歩兵第229連隊

亀井宏「ガダルカナル戦記」第3巻 光人社NF文庫 1994年

全体ではなく 父の所属した第229連隊についてだけの読書。ほとんど記載はない。

概要を私が述べる。「  」表示が父の言葉。

太平洋戦争 ガダルカナル島の戦い 1942年8月〜1943年2月

日本軍とアメリカ軍の ソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる戦い。

日中戦争が熾烈となった時期 名古屋地区で第38師団が増設された。名古屋の師団といえば第3師団で、これは名門とされているが、第38師団は強制的に徴用された人々の軍隊である。

父が入隊したのは歩兵第229連隊。

豊橋から名古屋まで訓練の行軍をした」「広小路の出兵祝賀行進には、どこで知ったのか どの家も みんな送別のため沿道に来ていた。母がいなかった。病死を覚悟した」

「隊は中支(中国中央)、南支を転戦。(父は途中から幹部候補生の研修のため内地へ)ガダルカナルで合流した時には屈強の軍隊となっていた。危険を察知すると小さな溝でも テッと飛びこむとか」

「ガ島上陸のときは・・ 敵の攻撃の中 船が浅瀬に乗り上げ・・(で何かを考えている様子・・)」(詳しい話は聞いていない)

浅瀬に乗り上げた輸送船

「ガ島上陸直後 浜に集められ 仙台の兵隊の処刑を見た。敵前逃亡罪。髪はぼうぼうで疲弊しきっており人間とも思えない姿であった。」

ガダルカナルの戦いは1942年8月、日本軍の作った飛行場を完成直後 アメリカ軍が奪い、その奪還のため優秀な仙台の部隊を派遣するも失敗、日本軍は増派を繰り返した。名古屋の師団の派遣もその一環。

アメリカ軍は精鋭の海兵隊であり、かつ圧倒的な物量、日本軍(36000人)は補給が途絶しており餓死者、病死者続出。戦闘による死者8500人(輸送中の38師団の死者は含まれていないと推測)、餓死者病死者11000人。

11月の38師団の上陸時には 制空権も制海権もなく 輸送船11隻中7隻を失った。38師団は一万人ほどであったが、その7割以上がその時点で亡くなったと推定。私は何種類かガダルカナル戦記を読んだが「陸軍は虎の子の高速輸送船を失った」という記述が主で 乗っていた名古屋出身の兵士を悼む記述は見たことがないし、数も不明。残った4隻も浅瀬に乗り上げ、武器兵糧 大部分の陸上げに失敗。持ち出せた大砲も 持ち出せた弾丸と種類が異なって使えなかったという。

38師団が展開したのは 空港の西側 海岸からやや山にはいった 川岸の東側丘陵 であったであろう。アメリカ軍は川岸の反対側に侵攻。と考えるのは父の次の言葉が根拠である。

「最前線が安全だった。(空港付近のアメリカ軍の要塞からの砲撃、海からの艦砲射撃、敵機からの爆弾 機銃掃射。アメリカ軍の歩兵のそばこそタマが飛んでこない安全地帯。)」

アメリカ兵は射撃がうまく 将校を狙ってきた。狙われないよう日本刀は見えないようにした」(接近戦)「川原でランチ準備の米兵、コーヒーのいい匂いがして・・誰か勇気のあるヤツが奇声をあげて軍刀をふりかざすと 米兵たちはパッと散り・・」

「配給は一日米20粒、上官が100回噛めと言うも、20回くらいでなくなってまうわさ」

亀井本 449頁 食料事情

塹壕

「隣の塹壕アメリカ軍の火炎放射器攻撃で全滅、我々の壕は入口付近が水浸しの地形で助かった」

父は ガ島から撤退後 東京の陸軍病院入院。回復後 浜松の海岸線で 米軍の本土上陸作戦に備える陣地構築の指導に従事。終戦を迎える。ガ島生き残りの塹壕技術が評価されたのであろうか。

撤退

「電報を解読したのはオレ(父)だった。撤退と解釈。(日本軍には 撤退 はありえない が常識)隊長と相談して撤退開始。歩けない伊藤さんをかついで密林の中を行く。遅い と何度も叱られた。疲弊して進めない。密林の明るい所へ出た。静かだった。シュツという音がして背中の伊藤さんに銃弾命中。ぐったり。」

「集合地点の海岸で「敵飛行場への逆上陸作戦を敢行する。参加する者は一歩前へ」一歩前に出た 遠浅の海岸を駆逐艦の鉄製折畳舟が反復。海兵はよく訓練されており手際よく疲弊しきった兵隊を収容。駆逐艦に登る体力はなく、担ぎ上げられた。」

「飢餓に苦しんできた兵は艦内でがむしゃら食べ 息をひきとった。ゆっくりたべるんだ、との助言で助かった。逆上陸で 東に向かうと思っていたが 急速に北上。助かった、と思った。」

「東京の陸軍病院に入った。傷病兵の格好で山の手線に乗ると 乗客全員が起立 敬意を表してくれた」

 

今出版されている太平洋戦争戦記は 上官は上等なものを食べていた とか 飢餓状態の戦場では人肉を食べた とか 日本軍の規律喪失の記述が散見されるが 父の話では 38師団の戦地も東京など内地も 聖戦の 規律があった という印象である。この本ではガダルカナルの撤収の浜辺でも ワレ先にの醜い争いがあった と記述されているが みんなボロボロの疲弊状態 戦闘参加の意志のない者は置き去り放置 など規律の過剰があったとの印象である。

とにかく 38師団 229連隊についての記録は少ない。この本にも命令書の数行の記述があるだけである。ほとんどの方々が輸送船の沈没で亡くなられ、上陸した人も餓死病死したからであろうか。

 

読後の感想

38師団を乗せた輸送船11隻中7隻が沈没 多くの死者を出したことについて「陸軍は虎の子の高速輸送船を失った」と記述されている。この本だけでなく、他のガダルカナル戦記も同様である。多くの名古屋出身者の死に対し 哀悼の意を表す文章に出会ったことがない。制海権、制空権のない、アメリカ海軍の結集している、ソロモン海に護衛もなく送り込み、一個師団を失ったことへの批判も読んだことがない。残念である。

名古屋空襲についても B29爆撃機数百機の襲来に名古屋市民を守る防空戦 皆無。各務原の航空基地の当時のパイロットと知り合いになったので聞いてみたが「敵機来襲の報があると離陸。地上の駐機中の攻撃を恐れた。適当に上空で時間を過ごしていた。」本土決戦まで航空機温存、だそうである。

今後の日本は 国民の生命を大事にする軍隊の国であってほしい。